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「暗闇のスキャナー」を読んで

2023年10月22日

ディックの小説は何冊か、名作とされる作品を読んできたが、俺は断然に、この「暗闇のスキャナー」を、全作を読んだわけではないのにおこがましいこと甚だしいとは分かっていても、最高傑作に挙げたい。異質な作品だと思う。

ちなみにキアヌリーブス主演で映画化もされている。

舞台はアメリカ。物質Dと呼ばれるヤクが蔓延し、社会問題となっていた。誰も物質Dがどこで製造されて、どのように流通しているのかは分からない。主人公はそんな物質Dの供給元を突き止めようとする、麻薬潜入捜査官であるボブ・アークター。彼は仕事をしている時は、フレッドと名乗り、スクランブルスーツと呼ばれる特殊スーツを着ている。このスーツを着ていると、周りから見ている人には、モザイクがかかったように映り、中の人が誰であるのかは一切、分からない。仕事柄、身分がばれると危険であるから、このスーツの着用が義務付けられているのである。ボブ・アークターは、ヤク中の仲間たちと一緒に過ごしながら、捜査を続けていたが、ある時、上司から命令を受ける。「お前の次のターゲットはボブ・アークターだ、奴を見張れ」。自分自身のことだった。監視カメラを実家に取り付けて、自分を見張っているうちに、ボブ・アークターは、潜入捜査中に服用していた物質Dのせいで、頭がおかしくなってくる。自分で自分を見張っているが、自分のことなのに別人のように思えてきて、こいつを早くなんとかしないとか思うようになって…―

他の作品がSF的なギミックが張り巡らされた世界の中で進行しているのに対して、「暗闇のスキャナー」はどちらかと言えば、まず登場人物がいて、彼らの会話があって、あくまでSF的なギミックが付随的に働いている点で異なる。自分で自分を見張っている内に、自分が崩壊していく過程の書き方も見事であるが、それよりもジャンキー達の永遠に続くかと思えるような、与太話がとても魅力的である。

アークターは言った。「車でメイラー・マイクロフィルム社のビルの横を通りがかってさ」

「またフカシかよ」

「で、連中は棚卸しをやってた。でも、社員の誰かが、どうやら在庫をかかとにくっつけて持ち出しちゃったみたいで、それだもんでみんなピンセットと小さい虫メガネ持って、メイラー・マイキロフィルム社の駐車場に出てたの。それと小さな紙袋も持って」

「礼金でも出たの?」ラックマンはあくびをしながら、手のひらで引き締まったかたい腹を叩いた。

「出るには出たけど、それもなくしたんだって。小さなコインだったから」

「運転してると、この手の事件にはよく出くわすの?」とラックマン。

「オレンジ郡でだけだよ」とアークター。

「メイラー・マイクロフィルム社のビルって、大きさどんくらい?」

「高さ約三センチ」

「重さの見積は?」

「社員込みで?」

フレッドはテープを早送りした。メータの読みで、テープ一時間分送ったところで止めてみた。

「・・約五キロ」とアークターが言っているところだった。

「じゃあ、横を通ったってわかんないじゃん、そんな高さ三センチで重さ五キロなんてんじゃ」

(中略)

「・・バレないでどっかの国にマイクロフィルムを持ちこむ方法って知ってる?」と

ラックマンが話していた。

「そんなのどうにでもなるじゃん」アークターはふんぞりかえってマリファナを吸っていた。空気に煙が充満してきた。

「いや、つまり税関の絶対に考えつかないような方法。バリスがないしょで教えてくれた方法なんだけど。本に載せるからって口止めされてるんだ」

「本って? 『一般家庭用ヤクと・・』」

「ちがう。『アメリカへのお手軽密輸出入マニュアル・・持ち出すか持ち込むかはキミしだい』。マイクロフィルムはヤクの荷と一緒に密輸するんだって。たとえばヘロインとかと。マイクロフィルムはヤクの袋の底に入れとく。すごく小さいから誰も気がつかない。誰も・・」

「でもそしたら、どっかのヤク中が、半分ヘロインで半分マイクロフィルムの注射を射っちゃうぜ」

「うーん、ま、そしたら、そいつはお目にかかったこともないほどクソ物知りなジャンキーになるだろうよ」

「マイクロフィルムの内容次第だけどね」

「あいつ、ヤクを持って国境を越える方法をもう一つ考えついた。ほら、税関で、何か申告するものはないかって聞かれるじゃん。それでヤク持ってますなんて言えないだろ」

「わかるわかる。どうやんの?」

「うん、つまり、まずでっかいハッシシのかたまりを持ってきて、それを人間の形に彫る。それから中に空洞部をつくって、そこに時計みたいなゼンマイ仕掛けと、ちっちゃいテープレコーダを入れといて、税関の列でそいつを前に立たせて、そいつが税関を抜ける直前にゼンマイを巻いてやる。するとそいつは税関の係官のとこに行って、向こうが『何か申告するものはありますか?』って言うと、そのハッシシのかたまりが『ありません』って答えて歩き続ける。それで国境の向こう側まで行くわけ」

「ゼンマイのかわりに太陽電池みたいなのにしといて、そしたら何年も歩き続けられる。永久に」

「そんなことしてどうなんの? いずれ太平洋か大西洋に行き着くだけだろ。それどころか、地の果てを踏み外して、まるで・・」

「そいつがエスキモーの村に行ったら面白いな。高さ百八十センチのハッシシのかたまり、時価・・えーと、時価でどんくらいかな」

「十億ドル」

「もっとする。二十億」

「そのエスキモーたち、革を噛んでなめしたり、骨を削って槍をつくったりしてるところへ、この二十億ドル相当のハッシシのかたまりが雪のなかをやってきて、何度も何度も『ありません』って言う」

「みんな、どういう意味だろうって不思議がる」

「永久に謎になる。伝説になるぜ」

「たとえば孫とかに話してやるわけよ。『わしはこの目で見たんじゃ、二十億ドルもする、身の丈百八十センチのハッシシのかたまりが、一寸先も見えんような霧のなかから現れて、あっちの方に歩いていきおった。「ありません」と言いながら』孫はそいつを精神病院にブチこむぜ」

「いや、ホレ、伝説ってだんだん誇張されてくじゃん。何世紀かすっと、そいつらこんな話しをしてるよ。えーと、『わしのご先祖さまの時代のある日、身の丈三十メートルで八兆ドル相当の超高級アフガニスタン産ハッシシのかたまりが、炎を滴らせ、「死ね、くそエスキモーどもめ!」と絶叫しながら我々に向かってきたんじゃ。わしらは戦い続けて、ようやくそいつをしとめたんじゃよ』」

「それだってガキは信じないぜ」

「もうガキは何一つ信じねーもん」

どうもこの小説を読んでいると、話をフカシたい衝動に駆られる。ある時、職場に電話のコール音が鳴り響いて、俺は一番に電話を取って、「お世話になります」と声を発したものの、相手からの返事はなくて、ピーッっていう音が鳴っているだけだった。どこかの間抜けがうちの会社に電話をしようとしたのだけど、FAX番号を間違えて打ってしまったのだろう。受話器を置くと同僚が言った。

「なに、今の電話、どうしたの?」

「死んだじいちゃんから電話がかかってきた。じいちゃんが死んだのは10年前なんだけど、天国はすごくいいところだって話してたのを聞いてた」

「またフカシかよ。で、どんなところだって言ってたの」

「なんかギリシャのミコノス島にパラダイスビーチってヌーディストビーチがあるんだけど、そこに似てるって言ってた。透き通るような海があって、空には雲一つなくて、日差しも気持ちよくて、みんな素っ裸で寝椅子に転がって身体を焼いてるんだって」

「ゲゲ、でも大体の人って、年とってよぼよぼになってから死ぬわけじゃん、ジジイとかババアの裸が並んでるビーチなんて俺はちょっとごめんだね」

「それがどうも天国では自分の身体がいちばん充実してた頃の姿になるらしいよ。だから若い人しかいないんだって。じいちゃんも久しぶりにナオンの裸を見て勃起したって言ってた。じいちゃん、死ぬ間際に俺に、「孫よ、何事も恐れるでない」とかそんなことを言ったんだけど、天国がそんな場所なら、恐れることなんか何もないなって思った」

「天国にいる人って腹が減ったりするのかな」

「いや、それが減らないらしいよ。でもみんなコカコーラだけは飲むみたい。ビーチのすぐそばにコカコーラのでっかい工場があるんだって。で、飲みすぎちゃって皮膚が溶けて骨になっちゃってる人もいるらしい。骸骨になってもコカコーラだけは飲み続けて、そしたら骨がどんどん溶けていって、最後は完全に消滅しちゃうの。そうやって、天国に人が溢れないように調整してるんだって―…」

この小説にはスクランブルスーツというSF的なギミックが登場するが、SF小説のジャンルにくくってしまうのは抵抗がある。つまりなんていうか、”純”ではないけれども文学だと思う。文学ってのは一体なんなのかよく分からないけれど、人物の心情であったり、葛藤が良く描かれている。まあよく分かんないけど、どうもディックも仲間たちとヤクをやったりしてた時期があったらしくて、そのヤク仲間の何人かは死んじゃったりしたみたい。基本的にこの小説は、そんなディックの悲惨な体験を追って描かれたものだ。それも切実に。登場人物の悲惨とはほど遠い与太話が続くが、人は永遠とラリって与太話を続けることはできない。与太話が繰り返されるたびに、ボブが自分を見失っていくたびに、悲惨さ、というものが色濃く漂ってくる。

Dは、物質DのDです。堕落と脱落と断絶のDでもあります。あなたがたが友人から断絶し、友人がたがあなたから断絶し、誰もがほかのみんなから断絶する。お互いの疎外と孤独と憎しみと不信。Dとは、最終的には死です。

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