Hono microCMS Blog

開けゴマ、アブラカタブラ、あ、いいです

2023年10月22日

微妙な間を生んでしまう言葉というものが世の中にはあって、それは大概においてちょっとした一言なのだけど、妙に頭にこびりついて離れないということがある。つい先日にそういうことがあった。火災報知器の点検の人がやってきた時だった。

一人暮らしをマンションでするようになってはじめて知ったことなのだが、法律かなにかの決まりごとで、年に1回かそのくらいの頻度で、火災報知器が正常に作動するかどうか点検をしなければいけないらしい。ちゃんと実施日の1ヶ月前くらいに書面でもって通知がなされていた。それは平日に行われることになっていたが、幸運にも自分は会社の休みを取ることができて、当日、火災報知器の点検員が来るのを落ち着かない気持ちで待っていた。

家の中に知らない人が入ってくる時はいつでも落ち着かない気持ちになる。エアコンの修理とか、給湯器の交換とかで、何回か経験はあるのだが、「部屋をどこまでキレイにしていればいいのか」ということでいつも悩む。徹底的にキレイにする人も世の中にはいるのかもしれないし、中には紅茶とケーキを用意しておく人なんかもいたりするかもしれない。でも、自分は紅茶もケーキも部屋の中で食べる習慣がないから置いていないし、徹底的にキレイにするのも何だか気が引ける。自分でもなんで気が引けるのかよく分からないが、それはある意味で取り繕っていて、かしこまっている状態であるからである。例えば、会社の上司が家に来るとしたら、俺は部屋を徹底的に片づけ、かしこまっている状態になろうと思う。掃除機を買ってきて塵をひとつ残らず吸い上げる。吸い上げた後はちゃんとキレイになっているか、床をなめて確認までするかもしれない。そのくらいの覚悟だ。

でも、その日、俺の家に来るのは上司でも何でもない、火災報知器の点検員だった。火災報知器の点検員はもし俺が部屋を徹底的にキレイにしていたら何を思うのだろうか。もし徹底的に部屋をキレイにしていたとして、火災報知器の点検員は、塵ひとつない部屋をみて、俺が取り繕っていることを感じる。そして、その取り繕いに対して何かコメントをしないといけないと考える。

すごいですね、あたしゃ長年、15年かそこら、火災報知器の点検の仕事をしてきたんですけどね、こんなキレイな部屋は今まで見たことがないですよ。

滅多に人がこないもんだから、特別にキレイにしたんですよ、ほら、床を舐めてもぜんぜん問題がない。

俺は床を舐めながら、火災報知器の点検員に話しかける。

あなたも舐めてみてもいいですよ、これが完璧にキレイな床の見本です、こんな経験はなかなかできるもんじゃない。

部屋を徹底的にキレイにすると、こんなやり取りがあって、俺と火災報知器の点検員は一緒に床を舐めることになってしまう。そして、俺は、火災報知器の点検員と床を舐めあう事なんかは決してやりたくないのである。だから、部屋は徹底的にキレイにはしない。それでも散らばってる服とかは収納をしたし、ごみもまとめておいた。しかし、机の上に乱雑に散らばった筆記具やノートはそのままにしていたし、ベランダに通じる窓の前に敷いてある布団を畳んだりはしなかった。話を元に戻すと、この畳んでいなかった布団が、後に微妙な間を生む一言につながってしまったんだ。

火災報知器の点検員は火災報知器の点検をするだけではなくて、ベランダにある避難ハシゴの点検もすることになっていた。そして、そのことは事前に知らされていなかったのである。火災報知器の点検が終わると、点検員は、「それでは次は可能だったら、避難ハシゴの点検をさせてもらいたい」、こんなことを喋りながら、ベランダに向かっていった。目に入ったのはベランダの前に敷いてある布団だった。

ベランダに出るためには布団を畳むことを俺に頼むか、布団の上を歩いて行かなければならない。俺は、もちろん布団の上を他人に歩いて欲しくないので、布団を畳まなければいけないと思った。でも、俺が布団を畳むよりも早く火災報知器の点検員はこう言ってしまった。

あ、いいです。

たったそれだけの一言なのに、微妙な間を生んでしまった。この一言の為に、微妙な考えが次々と浮かんできてしまって、微妙な間ができてしまったんである。例えばそのあとで、「あ、すみません、布団は畳んでおくべきでしたね、すみません、俺、あまりそういうことに気が回らなくて、ホント申し訳ない気持ちでいっぱいっす、ささ、どうぞお通り下さい、避難ハシゴの点検、みっちりとお願いしますよ、なんかあった時に使えないと困っちゃいますから、ハハハ」なんて言う事もできたかもしれない。しかし、あ、いいです、と先に言われてしまった後にこの台詞を吐いてしまうのは、すなわち、俺が火災報知器の点検員に布団を踏まれるのを嫌がっているのを悟らせてしまうことを意味する。もちろん誰だって、布団を他人に踏まれるのは、いやに決まってる。しかし、そうは理解していても、暗に君に布団を踏まれるのは嫌だ、と意味する言葉を吐きかけられるのだって、あまり良い気持ちはしないだろう。

あ、いいです、なんて言われて俺はなんて返せばよかったのだろうか。「本当にいいんですか、避難ハシゴの点検しなくて、本当にいいんですか?」なんて問い詰めるような真似もしたくない。

「こっちはさ、わざわざ会社を休んでまで部屋にいるんだよ、避難ハシゴの点検はあんたの仕事でしょ?確かに布団を敷いたままにしてたこっちにも落ち度はあるよ、でもさ、あ、いいです、なんて言っちゃってさ。あんたはさ、仮にいまここで火事が起こってさ、火災報知器はちゃんと鳴るよな、たったいまあんたが点検したばかりだもんな、でもさ、いまここで避難ハシゴで逃げるしかないって状況だったとするじゃん、それで布団が敷いてあったとしてさ、『あ、いいです』なんていって部屋に残ってそのまま死ぬのをただ待ってる?違うでしょ?分かった?布団を畳むから避難ハシゴの点検を早くしてくれって言ってるんだよ、俺は。」なんて気違いのようにわけのわからないことを捲し立てることも考えたりした。

しかし、俺は結局、こういうことをひとしきり考えた後で、「いいんですか、まぁ、そうですよね」と馬鹿みたいな相槌を打つことしかできなかった。あの時、あの瞬間、点検員が、あ、いいです、と言った後は、確かに微妙な時間が流れていた。あ、いいです、が頭から離れない。恐らくこれからの人生で避難ハシゴを使うことがあったら、「あ、いいです」の言葉が必ずフラッシュバックするだろう。そして、パニック状態になった自分はフラッシュバックした「あ、いいです」以外の言葉は何も思い出せなくなってしまい、呪文のように、あ、いいです、あ、いいですと呟きながら弱々しくハシゴを下ることになってしまう。

TwitterShare