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ホパラタは行うか

2023年10月25日

ブログを書き始めて、1週間に1本の頻度で更新をしていこう、などと考えていたのだけど、自分の中で立てる誓いというものほど脆いものは世の中にそうはないわけで、当然のように1週間に1本の頻度で更新をしていない。自分はあまり思考をしない人間であり、そのため「私が〇〇について考えていること」というような内容のブログは書くことができない。何か自分に特別なことが起こった時に、そのことを書く、というのがせいぜいのことで、毎週毎週、何か特別なことが起こるほど、幸運な人間ではない。それでも起こったことに対して、何がいちばん特別だったか、という順位をつけることはできるわけで、今週で一番特別だった出来事はカツラを会社の女性の先輩に貰ったことである。土曜日に先輩がやっているバンドのライブを観に行き、ライブ用のコスチュームとして先輩が被っていたカツラを頂くことができたのである。せっかく頂けたのだからなるべく被るようにしようと思い、実は今もカツラを被りながらブログを書いている。しかし、カツラを被りながらカツラについて書くということは恥ずかしい。どうしてかはうまく言えないが、それは恐らくカツラについて客観視することができないからである。なので、今回は今日、古本屋で見つけた本について書こうと思う。はじめに断っておくが、まだ読んでいない。それは「クマにあったらどうするか」というタイトルのもので、アイヌ民族最後の狩人である姉崎等さんがクマについて語る本だ。冒頭の一文を読んで、この本を購入しようと決めた。

私は、クマを自分の師匠だと本気で思っています。なぜクマが師匠かというとクマの足跡を見つけたときにクマを一生懸命追って歩く、そうやって追っていくうちに、山の歩き方やクマの行動などをすべて学んだからなのです。

もの凄い冒頭文だと思った。

私はその人を常に先生と呼んでいた。だからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。これは世間をはばかる遠慮というよりも、そのほうが私にとって自然だからである。

これは夏目漱石の「こころ」の冒頭文である。

ちょっと内容が似ているが、やはり気になるのは「先生」と「師匠」のことである。

俺の人生で「先生」や「コーチ」「監督」など人にものを教える立場の人にものを教わったことは何回もあるが、「師匠」と呼ばれる人に教わった事は一回もなかった。「師匠」は恐らく「先生」や「コーチ」よりも厳しい類の人なんだと思う。師匠と対になる関係は「弟子」であり、そこには複数人を教える「先生」「コーチ」よりも濃密な関係があることが想像される。そこにはぶん殴ったり、蹴っ飛ばしたりといった何らかの暴力的な「しごき」があるに違いない。恐ろしいヤツだよ、「師匠」ってものは。そんな「師匠」が人間ですらなく、「クマ」なのだからこれは物凄い本に違いがない、長くなったが、このような経緯があって、この本を購入しようと思ったのだった。

この本は語り手である姉崎さんに対して片山さんという方がインタビューする形式で文章が綴られていた。目次を読んで第五章「クマにあったらどうするか」にある節「ホパラタは行うか」が気になったので飛ばして読んでみた。「行う」という言葉から、何らかの行為であることは分かるが、「ホパラタ」という語感からとてつもなくバカそうな行為であることが想像された。

片山 ところで、アイヌ民族の伝統的なクマと出会ったときの対し方ということで、たとえば知里真志保がホパラタ(魔を祓う所作)というのを紹介しているんですが、ホというのは「陰部」、パラというのは「広げる」、タというのは「打つ」という意味で、着ているものを広げてそれで陰部の部分をあおるようにして打つ、つまり陰部を露出させてクマを追い払うというようなことが出ているんですが、こういう所作はしたのでしょうか

姉崎 それは聞いたことがないですね

とんでもない行為だった、バカどころか変態的な行為だよ「ホパラタ」ってのは。その後の話の内容をざっくりとまとめると、片山さんは3回程度、「姉崎さんも実はやったことがあるんでしょう?『ホパラタ』を」ということを姉崎さんにしつこく問い詰めていたが、姉崎さんは「ホパラタ」に対して存在自体を否定していた。「ホパラタ」が実際に存在するかどうかは謎だが、姉崎さんにとってクマは「師匠」であり、「師匠」に向かって「ホパラタ」を行う、つまり陰部を露出させるのは、流石にちょっとありえないんじゃないか、というようなことを思う。

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